2001年宇宙の旅

元旦をもう一週間近くも過ぎてますが、あけましておめでとうございます。
今年も去年と同じくゆるりとやっていく所存ですので、どうぞよろしくお願いします。
年末番組はやっぱりたけしの超常現象SPが一番ですね(笑顔で)。

早稲田松竹で「2001年宇宙の旅」をリバイバル上映するというので行ってきました。
DVDで見た時から思ってたんですが、この映画は映画館のスクリーンと音響で観るべき映画です。
どこで流れるかはもう知ってるのに、実際に『ツァラトゥストラはかく語りき』が流れてきた瞬間の興奮といったらもう!
映画館じゃなくてライブハウスとかだったら叫んでました。

これほど人によって解釈の分かれる映画って珍しいですよね。
初めて観た時わけがわからなくて、色々なサイトを巡って感想を読み漁ったんですが
色々と考えさせるめんどくさい映画のくせに、考えることが滅茶苦茶楽しいのが行間から伝わってくる感想が沢山。
勿論、わけわからん!というだけの感想が生まれる作品であるのは確かですし、
他人がわからん!という映画をさも自分は分かってるんだぜ~的に振舞いたいだけというのも
確かに、少なくとも俺はそうかもしれません。自分じゃ分かりません。

それはさておき…。

一回目にこの映画を観た時は、SFサスペンスかと思いました。
二回目にこの映画を観た時は、哲学かと思いました。
三回目にこの映画を観た時は、ブラックジョークかと思いました。
なぜか、観れば観るほどストーリーの中心であるHAL9000の影が薄くなっていくんです。
勿論フロイドもボーマンもみんな脇役です。
この映画には主人公は存在しません。観客が神=主人公みたいなものです。
モノリスに右往左往している登場人物たちを、観客=神=主人公が指差して笑って観る映画なんだと思います。
笑って、というのは、同じキューブリックの「博士の異常な愛情」みたいな上品かつ下品な笑いじゃなくて
むしろもっと意地悪な、悪意ある笑い。
小さい子供がアリの巣を弄くって、あわてて出てきたアリをいじめて遊ぶ、ああいう笑い。

というのが俺の解釈。

大学の思想論の先生は、この映画はニーチェ思想の映像化でもあると言っていました。
ボーマンが木星でモノリスに出会い、進化し、本来人があるべき姿=汚れのない赤ん坊になるという
大まかな流れは、ニーチェっぽいような気もします。
というか、『ツァラトゥストラはかく語りき』が流れる時点でニーチェを意識していないはずがないのですが。

地球とか月とか木星にわざわざモノリスを置いたのは、
たった一人のスターチャイルドを作るための壮大な実験だったという解釈もあります。
冒頭で猿人が投げた骨が宇宙船に変わる場面から、人類は何年経っても武器を作り続けている…
という風刺がテーマの作品であるという解釈もあります。

そういう他人の解釈を見たり聞いたりするのがとにかく楽しい映画です。
自分と違っていても、むしろ次に観る時に新しい楽しみ方が出来る喜びの方がはるかに大きい。
そして公開から40年以上経っても今なお議論が交わされているというのが嬉しい。
少なくとも、自分が死ぬまではこの映画で楽しめそうです。
ああ次はどの映画館でやるのかなあ。


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